最近のファミ通

彼はゲーム批評サイトを運営している。ある日、彼はそのサイトのコンテンツのひとつであるゲーム日記に、ファミ通レビューは金を積めば高評価なので当てにならない、と言いがかりめいたことを書いた。しかし彼は、満員電車で真面目なサラリーマンを痴漢冤罪に陥れる愉快犯のような愚か者でなかった。彼はゲームを愛していた。愛しすぎていた。ゲームはそのゲーム自体のおもしろさがすべてだと信じていた。
そのはるか昔、ログインの一コーナーとして人気を博していたファミコン通信は、ファミコンの爆発的ヒットに背中を押されるように、隔週刊行のテレビゲーム専門誌としてこの世に生を受けた。その当時、ゲームをする人間の多くは、マニアと子供だった。マニアや子供の求めるゲームは単純だった。おもしろいゲーム。だからファミ通はおもしろいゲームをおもしろいと言った。つまらないゲームをつまらないと言った。ファミ通はゲームをする人間の代弁者だった。
彼はファミ通が大好きだった。
時は経ち、ゲームは幅広い世代に普及した。一般人や大人もゲームをするようになった。彼らの求めるゲームは複雑だ。安いゲーム、シンプルなゲーム、長く遊べるゲーム、ストイックなゲーム、エロいゲーム、泣けるゲーム、音楽の良いゲーム、絵の綺麗なゲーム。ゲーム自体が複雑になったとも言える。それでもファミ通はまだゲームをする人間の代弁者であり続けようとした。複雑なゲーム、複雑なユーザー、すべての代弁者であろうとした。その結果、ファミ通は八方美人になった。どんなゲームも否定できなくなった。何のアイデアも感じられず、ゲームバランスもめちゃくちゃなゲームであっても、大金をかけて綺麗なグラフィックを作ればファミ通は評価した。人気シリーズの続編であればファミ通は評価した。
彼はファミ通が嫌いになった。