高度なサイエンスは高度なマジック

「では、シュレディンガーの猫を実演してみせましょう」
外界とそれなりに断絶された箱の中に、半減期が十分のセリウムと放射線検出器と青酸ガス発生装置と猫とをうやうやしい動作で入れると、私は箱の前に立ってゆっくりと話し始めた。
「箱の中を観測できない我々にとって、この箱の中のセリウムは、アルファ崩壊したヴァージョンとアルファ崩壊していないヴァージョンとが重ね合っている状態だと解釈できます。そして、その量子的な重ね合わせ状態は、検出器と青酸ガス装置によって猫のスケールにまで拡大されるので、セリウムと同様に、猫も生きているヴァージョンと死んでいるヴァージョンとの重ね合わせ状態になっていると考えられます。今この瞬間には、生きているヴァージョンの蓋然性が高いですが、こうして話をしている間にも死んでいるヴァージョンの蓋然性はどんどんと高くなり、十分後に、それらは半々になります。セリウムの半減期が十分ですからね。生きている猫のいる唯一の世界から一瞬ごとに死んでいる猫のいる世界が細切れに分岐していって、十分後に分岐した世界の総計が元の世界と等しくなるとイメージしてもいいでしょう。どちらにしても猫にとっては同じことです。さて、十分後、つまり猫の生死の蓋然性が半々になる瞬間にこの箱を開けると、猫はどうなっているでしょうか」
「ごおおおおおお」人々が一斉に答えたので、彼らの声は合成され、大きいだけの単純な波として私の耳に届いた。個々の声はほとんど聞き取れなかったが、耳をそばだてると、かろうじて「わからない」「観測結果なんて本質的じゃない」「猫が死んでも代わりはいるもの」といった言葉が聞き取れた。ほぼ期待通りの反応だ。
「みなさん様々なご意見ありがとうございます。まだ時間までは五分ほどあるようなので、その間にこの実験の概要をまとめた映像をご覧いただきたいと思います」
私が箱を袖にどけると、舞台が暗転し、『初心者のサルでもわかるシュレディンガーの猫の核心の要点』という映像が流れ始めた。客の注意が映像に向いた隙に、私は自分と同じ衣装を着させておいた助手と入れ替わり、舞台裏に降りた。そこで煌びやかな衣装に着替えると、こっそり箱の中に入って息を潜めた。
五分後に映像が終わると、助手が舞台に立った。助手の口元のスピーカーから事前に録音しておいた私の声が聞こえる。
「時間になりました。では、箱を開けましょう」
もくもくと立ち込めるドライアイスの白煙のなか、助手は箱に手をかけ、一息に持ち上げた。箱の中から私が勢いよく立ち上がると、天井から紙吹雪が舞い、オペラのクライマックスが流れた。しばらく唖然としてしていた人々は、次第に私のマジックを讃える歓声をあげはじめた。
量子力学ではあらゆることが起こり得るのです。生きているヴァージョンの猫、死んでいるヴァージョンの猫、そして、私に入れ替わってしまうヴァージョンの猫!」
ごうごうと舞台を揺らすような大歓声はやがて私の名を呼ぶコールに変わる。
「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!「セロ!」「巨視的なスケールの存在である猫の状態が不確定なのは、微視的なスケールの不確定性を装置によって拡大しているだけなのでまだ理解できるのですが、あなたは微視的な現象との繋がりのない只の巨視的なスケールの存在なので、不確定な振る舞いをするのは道理に合わないのではないですか。少なくともこの実験の猫と同列に扱うべきではないと思いますが」「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!」
「どうも」「どうも」「どうも」「どうも」「どうも」「どうも」「非常に多くの不確定な微視的スケールの現象が組み合わされた結果、大数の法則によって、最も確率の高い現象が巨視的なスケールにあらわているというだけのことであって、宇宙が終わるまでに一度も起こらないと断言できるくらいに確率は低いですが、巨視的なスケールで訳のわからない現象も起こり得ます。ミクロとマクロを明確に分ける事などできません。今回の実験で、セリウム──セロだからセリウムと名づけました──がアルファ崩壊する原因となっているトンネル効果について考えてみてください。猫を形成するすべての粒子と私を形成するすべての粒子が、まったくの偶然にも相互に入れ替わるように時間的にも空間的にもピンポイントなトンネル効果を起こしたなら、今回のような現象が起こるでしょう。それが今、まったくの偶然にも起こった。それだけのことですよ」「どうも」「どうも」「どうも」「どうも」「どうも」
「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!」「セロ!」
無理を通したら道理が引っ込むというイリュージョン。