十年くらい前

談笑しながら歩いていたおれとYの横にタクシーが急に止まったので、あれ、手なんか挙げていないのにおかしいなあと思って当惑していると、ギィっとドアが開いて、タクシードライバー氏の、乗せてってやるから後ろに乗りなという声が聞こえてきた。知らない人に付いていってはいけませんよと叩き込まれているおれは、これは誘拐に違いないと確信して、恐怖に身を震わせながら助けを求めるような表情でYの方を見たのだが、Yは嬉々としてタクシーに乗り込んでいるところだった。タクシーの後部座席に乗り込んだYは、おまえも早く乗れよとでも言いたそうな表情でこちらを見た。なんでだよおかしいだろ手挙げてないだろ金ないよ乗るなよどうしようどうしよう怖いどうしようと、まとまらない言葉の奔流が頭の中で暴れまわっていたのだが、断るタイミングも逃げるタイミングも逸してしまった気がしたので、仕方なく乗り込んだ。
ほどなくタクシーが発進してからもおれの恐怖は消えるどころかいや増すばかりで、座席の端っこで無言のまま縮こまって座っていることしかできず、どうしようもない絶望感に囚われていた。
数分後、タクシーはなぜかおれの家の前に止まって(住所なんか教えていないのに)、タクシードライバー氏の着いたよの一声とともにドアまで開いた。なんだかいろいろと意味がわからないけど、誘拐ではなくて只のタクシーだったみたいなので、ほっと胸をなでおろしたものの、そのときはお金をまったく持っていなかったので、お金がないと言ったら、Yとタクシードライバー氏は顔を見合わせてひとしきり笑ったあと、そんなのいらないよーと声を合わせて言った。
タクシーを降りた後、タクシードライバー氏について考えた。
妖怪無銭タクシー。子供の頃からの夢を叶えてタクシードライバーになった男が、初めて客を乗せたときに事故を起こして自分もろとも客を殺してしまったために、成仏できずに路上をさまよっている。妖怪なので人間界のお金はいらず、只で乗れる便利なタクシーである。