Oblivion とトワイライトプリンセス

別に比べようとおもったわけでもないんだけど、珍奇な偶然からトワイライトプリンセスをこのタイミングで借りたので、Oblivionトワイライトプリンセスを並行に遊ぶ形になっていて、せっかくなので比較。FF12ゼルダと来て、あとはAIゲー関連でそのうち絢爛舞踏祭を引き合いに出して犯罪がどうたらこうたらと書くと、個人的には満足。
さあてさて、ワンダと巨像が発売された当時に、みんなしてゼルダゼルダうっせえなあと思いながら自分でもゼルダを引き合いに出したおれなんだけど、今Obilivionに対してゼルダをまたもや引き合いに出そうとしている。なんだか、いつまにかゼルダというシリーズは、ゲームから、3Dの箱庭冒険ファンタジーを説明するための比較ツールへと変貌しているんじゃなかろうか……! と思わず思ってしまう。
なんとなればね、トワイライトプリンセスが9年も前の時のオカリナといまだ同じようにデザインされているってのに尽きるわけで、これだけ変わらずにいたら、もうゼルダのイメージというものが完全に固まるに相違ないわけで、ゲーム自体が(おもしろいにしても)新鮮さがなくて、イメージが固まっているなら、なんかの機会に引き合いに出すくらいしか語りようがないわけです。
たとえば今日、おれは9年前のように、フィールドや村で強制サブクエストとも言うべきおつかいをこなして、ダンジョンでは用意された謎に用意された解答を示してピロリロロリコン♪という音色を聞いたんですけど、このゲームプレイ自体には、うむ、これぞゼルダだ。というひとこと感想しか浮かばず、独立して感想が書けないぜリンクさん。
で、まあ、こういう一本道デザインじゃなきゃゼルダじゃないよねーとも、ゼルダもそろそろ変わらなきゃいけない! とも、どっちとも言えるんだけど、ただ、このデザインのままだと、世界の大きさという、3D箱庭ゲームの重要な楽しみを広げにくいのってのは確かだと思う。
というのも、目的地にたどり着くため(だけ)にフィールドを馬を駆ってパカパカ移動作業をしなければならない*1となると、マップ上に、ある程度以上の密度で村やダンジョンなどの目的地が配置されていなければ、移動の面倒くささが爆発的に増大してしまう。そういうデザインのままで、たとえば次世代ゼルダOblivion並みの世界の広さにするとすると、それに伴ってダンジョンやらなんやらが大量に必要となって、結果、200時間くらいかかる一本道のゲームにならざるを得ないのではないかという話。もし実現したら、それはそれでゼルダ大好きっ子には楽しいゲームかもしれないけど、そこまでいくと、ゼルダ選民思想という感じになっておれみたいなもんは途中で取り残されてしまうし、そもそもトワイライトプリンセスでさえ延期を繰り返してWiiにまでずれ込んでやっと発売したくらいなのだから、そんな超ボリュームなんて明らかに破綻してる。無理無理無理無理ムームムリよ(TDQオタ歓喜!)。
といったところで、広大な世界をそのまま感じさせてくれるOblivionのような自由に対して、「適格だなあ」という印象を抱くのに繋がりました。
言うまでもなく自由では説明不足なので、文脈上わかりやすく説明しますと、どこにでも最初から行けて、どこにでもサブクエストが大量にあるので、どちらに進んでも同じように楽しさにありつける安心感があるということです。心置きなく好きな場所に行けます。
あと、歩いたりジャンプしてるだけでもそれに対応した運動スキルや軽業スキルが成長するので、フラフラ無駄な行動をしてても背景にはRPG的な育成の楽しさがある、という要素も、フィールドをうろちょろする動機のひとつなんですけど、そいつはさすがにゼルダとは関係がないかと思う。まあ、そのくらいの大きな変化がゼルダにあってもおもしろいんだけど。

*1:もちろん、わき道に逸れるという選択はできるけど、逸れたところでおもしろいことは何も待っていない一本気なゲームなのだ。