振り下ろす拳の向かう先は

「真くん、今日はどうだった?」
ライブを終えたウタピカの楽屋で、真はたずねられました。
「あ、はい! やっぱりウタピカさんはすごいなあと思いました。歌もうまいしトークもおもしろいし。へへっ。でも、ボクもいつか、絶対そのステージに立って見せますよ!!」
そこで、ぶん! と勢いよく右腕をスイングしたものですから、テーブルのお茶が倒れてしまいました。
「ああすいません、すぐ拭きますね! ボク、力が入るとつい腕をスイングしちゃうんですよね……」
とスタッフに言うと、すぐさまウタピカに向き直ります。
「ボク、ダンスも歌もまだまだ下手だけど、絶対Sランクアイドルになってやるって、それだけは心に決めているんです! 大事な人と、約束したんです!!」
そこで、ぶん! とまたスイングし、今度はなんと、ちょうどティッシュを持ってきたスタッフの顔に右手が当たってしまいます。ステゴロ・ザウラーを一撃でノックアウトした真ですから、右フックを不意打ちされたスタッフはひとたまりもありません。ぐしゃ、と嫌な感触がしたかと思うと、そのまま壁まで吹き飛び、力なく床にくず折れました。壁には真っ赤な血! 右手にも真っ赤な血!
「ひっ……ボ、ボク……あ……」
とうめきながら、真はぺたんと座り込んでしまいます。
「真くん!」
椅子から立ち上がったウタピカが、呼びかけます。
「動揺しないで、真くん」
「……え?」
「大丈夫……。トップアイドルになるって決めたんだよね? それなら、このくらいのスキャンダルは、もみ消さなきゃならないんだ。法律に反していること、菊地真らしくないこと、そういうのはすべて、人に知られちゃいけないんだ。ねえ、どうする? 幸いこのスタッフさんは身寄りもないただのアルバイトだし、息もある。わたし、真くんには期待してるんだ。もみ消せるよ? こんな傷害事件が表沙汰になったら、もうアイドルになんてなれないよ」
ウタピカが、真を見つめます。値踏みをするように。
「え……あ……な、何を言ってるんですか! もみ消すって、そんなのおかしいですよ!」
真は我に返り、倒れたスタッフにかけよって大丈夫ですかと声をかけます。しかし反応はなく、自分にできることはないと判断して携帯電話を取り出します。
「真くん、それでいいんだね? 救急車を呼んだら、バレるんだよ」
「当たり前じゃないですか! そんなこと気にするなんておかしいですよ!」
「ふふ、わかった」
携帯取り出しポパピプペと119に電話をかけた真の耳に、パンパパラパプパパプパパフンファフファファファファフファーパンパラパッパッパパパパーパーパーパーパーーン! と場違いなファンファーレが響きました。
「おめでとう、真くん。合格だよ!」
という声が二重に聞こえました。ひとつは電話から、ひとつは──目の前、携帯電話を耳に当てたウタピカの口から。
「え、ウタピカさん!? これって、どういう……」
「真くんを試してたんだ。ごめんね。トップアイドルになるために人を見捨てるような子なら、わたしは応援できないから。ふふ、結構もみ消そうとする子もいるんだよ?」
真は柔術のような構えをして、体を引いています。
「え、え?」
「真くんは、助けようとしたよね。だから、この子は、信頼できるなって思った」
「え、え? あ、でも、このスタッフさんのケガは?」
指を差されたスタッフは、さっきまでの力ない様子が嘘のように、ひょいと立ち上がりました。
「いやあ、あっしはただの当たり屋でさあ。真さんのパンチも速かったですが、毎日車に当たってるあっしからすれば、まあ、やりやすい相手でしたわ。当たった瞬間、横に飛んで、あとは血糊をベタっとやるだけでね。じゃ、あっしはこれで」
そういうと当たり屋はスタスタと出て行ってしまいました。よくよく見てみると小野ヤスシにも似ています。ドア付近で彼はこちらを振り返ると、小さく口を動かしました。「大成功」と言ったように見えました。
真はこの段になって騙されたことを実感し、イラっとしました。