タイトル屋ー!

日記書きたさで走り出した今夜、あてどもない散策を受けとめてくれたのは菊池真菊地真。うん、またなんだ。しかしこうテーマを絞ることには賛否両論あろうけど、書きたいだけのときに書くことをある程度絞って始められるのはいいのかもしれない。とおもう。
青春のうちに経験しておきたいことベスト3で知られる、パンをくわえて走る女の子と激突。これについて以前、こう書いたことがある。

  • 真と曲がり角でぶつかっても真は倒れないからなあ。運命の出会いしにくいなあ。

これはちょっとしたおもしろ真テキストでも書こうかと思って書いたんだけど、自分では違和感があって、それは、真が物理法則を無視していると認めているからだなーと思った。強いという設定のみで安易に理解を試みている。いくら引き締まった筋肉が強くても、40キロそこそこの人間が55キロの人間とぶつかったら吹っ飛ぶ。それがエネルギーというもの。アイドルマスターはできる限り現実だと思ったほうが楽しいので、設定の類が現実を塗り替えたイメージには違和感がある。だからおれの真についての文章は半分くらい自分で違和感なの。
 
今日は夢を見て、おれの頭に雑草を引っこ抜いたような草がそのまま刺さっていて、どうやらそれは髪飾りで、手にはほつれた藁でぐしゃぐしゃの塊があって、どうやらそれは籠で、歩いていて、おれは野生児で、言語を介さなかった。起きたらその籠をくれたのは天海春香だったと直感した。というこの夢は夢診断が容易すぎておもしろかったので記録。
 
なんである種の文章は翌日恥ずかしいのかということについて。多くの場合それは深夜のラブレターとたとえられることから、「本心」が恥ずかしいのだと結論つけられるように思うんだけど、本心なんてそんなにレアでもないので、それでは物足りなくて、個人的にせんじつめてみたところ、それは「本心がごてごてに装飾されているから」だろうと結論つけた。主張自体は自分の感覚を伝えているんだけど、瞬間的な思いつきや意図による装飾は普遍的なイメージではないから、そこで文章に愛憎半ばみたいな引き裂かれる感覚になってうわーーー!! それを恥ずかしさと呼ぼう♪