暗闇のスキャナー

ディックといえば、現実崩壊とか本物と偽者とかっていうキーワードで語られてるのをよく見ていた。おれのたったふたつのディック経験である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と『流れよわが涙、と警官は言った』を読んだ時は、まあ確かに現実は崩壊してるような気がするけどよくわからんなあという判然としない感想だったから、おれにはディックは合わないのかと思っていたんだけど、これは全然違った。おもしろい。自分で自分を監視するというあらすじを読んだ段階では、ぶっ飛んでいておもしろそうだというような現実の崩壊への期待だったけど、この小説に書かれているのはぜんぶ現実でぜんぶ本物だった。崩壊なんてしてなかった。妄想や幻覚はすべて麻薬によるもので、自分で自分を監視するというのにも論理的な理由があった。変な世界にトリップしないでまっすぐ麻薬を書いていた。すげえよ、ディックすげえよ。と打ち震えながら訳者あとがきを読んだところ、ディックはほかにこんな小説を書いていないみたいだった。残念だった。右に落ちれば神学の奈落、左に踏み外せばSFのブラックホールへと落ちていく、摩天楼のような高ポテンシャル綱を見事なバランスで渡りきった奇跡の小説だということか。まあこんなのを連発できてたらもっと人気あるよなあ。今も相当あるけど。まあともかく、三冊目でこれに当たったおれは幸運だなあ。ほかのディックを読む必要がなくなった。
あと、ハヤカワから映画化に合わせて新訳が出る(出た?)らしいけど、読むならこの創元版を断然お勧め。おれが読んだ翻訳小説はせいぜい100くらいという少なさではあるけど、こんなに読みやすい翻訳は初めてだった。ナオンとコーマンきめてえぜ、みたいな80年代業界人の口語体で、非常に読み下しやすい。翻訳じゃないみたい。実は訳者さんのサイトに全文載ってる。ここ(http://cruel.org/books/books.html)の、スクロールバーを一番下から5ミリくらい上に行ったところらへん。邦訳13年経過後に、原書の誤植発見らしい。ついでに死の迷路も全文載ってるけど、訳者に凡作と書かれてる小説をわざわざ読む気にはならないなあ。