不気味で素朴な囲われた世界

やったー。嬉しいことにすごいおもしろかった。
ネコソギラジカルとかりすかとかにある往年のジャンプを思わせる異様な能力を持った人が格闘するシーンが好きじゃなくて……というと、「好きじゃないなんていうからにはさぞ万人が納得する論理的な理由があるんだろうねえ! なかったら許さないよ!」とインターネット移植に際して鬼神と化したマザーテレサの圧力を幻想してしまうので、生まれたときからおれのアストラル体の脳天から肛門までを貫くイマジナリー背骨としてそういうシーンが好きじゃないという意識が確固として存在していたのかもしれないし、あるいはなんらかの潜在的トラウマ(小学生のころジャンプ好きなクラスメイトに邪王炎殺黒龍波を打たれたので必死で跳ね返したらなんとそいつ黒龍波を吸収しやがってものすごいパワーアップしておれをボコボコにしやがったなど)が作用しているからかも知れないし。とかまあ理由はなんでもいいや。と思ったりする。
まあそんな鶏が先か卵が先かみたいな基を辿る話とみせかけて適当なことを書くのはどうでもよいので止めにして、ああちなみに、鶏と卵は明らかに卵が先ですよね。卵が生まれた時点でそのあとの成長に遺伝的な変化なんて起こりようが無いので、鶏に限りなく近い種がちょっとした突然変異で鶏の卵を生んだってのが先に違いない。まったく、鶏が先か卵が先かなんてことがなぜ格言として広く用いられるのか不思議ですよね。
と、今度はあるあるネタを書いてしまったので本当にもうささっと閑話休題すると、格闘していない西尾維新という点で好き。そんな文章が思い浮かんだくらいにいーちゃんには戦うイメージがついていたのだ。もちろん件の戦うネコソギにしてもシリーズものなだけあって愛着のあるキャラクターが出ていたわけだから楽しんだんだけど、それはまあ玉露は二番煎じでもすごく上手いみたいなものよね。
そして、格闘が存在していないことなんていう本来わざわざ感じるべきでないもの以外に、本作に存在していたものはなに? 西尾維新という言葉があらわす感覚ってなに? というと、ダジャレやパロディでコミュニケーションを繰りなす萌えキャラたち。昔はもっとたくさん感じたと表明したかったかもしれないけど、今はそれだけしか思いつかない。萌えるし笑うしそれだけでもう楽しいと思って満足し、最初の数ページのこぐ姉で早くも惚れ込んだ。あと、反感を抱いちゃうようなキャラクターや文章がなかったのもよかった。なんたって供犠創貴はむかつくからなあ。

不気味で素朴な囲われた世界 (講談社ノベルス)

不気味で素朴な囲われた世界 (講談社ノベルス)